眞鋭流手裏剣術と鎮火祭火打釘紹介

筑前塾道場は武術を通じた人間育成、歴史文化伝統の保存を行っています。

眞鋭流手裏剣術について

 眞鋭流手裏剣術とは、根岸流手裏剣術四代宗家前田勇眞鋭先生が 筑前黒田藩に伝わる伝統「火魔封火打釘」を工夫し、 会得された各種武術を総合して伝えたものです。
 各流派の手裏剣や打法には色々とありますが、眞鋭流では棒手裏剣の直打法を使用します。
 現在は眞鋭流二代宗家寺坂進先生に手裏剣術や剣術、杖術など眞鋭流の各種武術と共に 筑前黒田藩に伝わる「鎮火祭火魔封火打釘」の神事作法と火消奉行の装束もも伝承され 手裏剣研究会での稽古や毎年黒崎春日神社の春の大祭での奉納演武などを行っています。
 詳細については以下をご覧下さい。

前田勇眞鋭先生について

 明治三十四年大分県国東生まれ
 根岸流手裏剣術四代宗家、眞鋭流手裏剣術初代宗家、杖術、骨法など各種武術の皆伝、居合道範士八段、講道館柔道七段など。
 八幡市黒崎町にて元木春芳氏に出会い安倍流の手裏剣術を学ぶ。
 その後その元木氏の師である尾崎師より手裏剣術を始めとして、拳法や居合、杖など多数の古武術を学び、皆伝を授けられた。
 これらの古武道と共に、筑前黒田藩伝承の「鎮火祭火魔封火打釘」の作法と行事に必要な諸具も譲り受けている。
 その後も上京して武術修行を続け、昭和十年には根岸流三代宗家成瀬氏に見込まれ師弟関係を結び、のちに根岸流四代宗家を許されている。
 戦時中には自分の部隊が敵に包囲され危機に陥ったところ、手裏剣を以って手榴弾に対し窮地を脱し任務を全うしたので松浦司令官より感謝状を受けている。
(※ちなみに戦時中の手裏剣での活躍は当時の新聞や雑誌に掲載された)
 戦後も武術のみならず、長年の消防団での防火活動や火魔封火打釘奉納演武など防火思想の啓蒙活動の功績により、 昭和四十四年には「防火思想の普及の功労者」として勲六等旭日章を受けた。

鎮火祭火魔封火打釘(歴史と過去の神事)

 鎮火祭火魔封火打釘(ほしずめのまつりかまふうじひうちくぎ)
 
 この神事は天正17年(1589年)に家督を相続した筑前福岡藩初代藩主黒田長政公の命により 家老の栗山備後が式次第をとりまとめ極秘に執り行われていた火災防止祈願の秘祭です。
 黒田藩の豊前中津時代、秀吉の命に従わなかった土地の豪族城井鎮房らを暗殺し一族を滅ぼしました。 その後それが原因と噂される怪火が頻発し、鎮魂のために神社を建てるなどしましたが筑前入府後も続いたため、 鎮火祭火魔封火打釘の儀式を執り行うようになりました。

 祝詞の奏上や、火を起こしそれに砂や水を掛け消すなど鎮火祭に相応しい儀式に加え、 武家由来の神事らしく奉納演武も執り行います。
 特に火打釘と呼ばれる手裏剣術の奉納はこの儀式特有のもので、 当代一の手裏剣術の達人が火消奉行に任命され、火魔と呼ばれる鬼の的へ手裏剣を打ち込む儀式を行って来ました。

 儀式の場所については関係者のみに伝えられ極秘に執り行われており、火消奉行の大音一観、手付長の建部武彦の名の記載された 尾崎惣右衛門当ての執行通知も残っています(場所については暗号)。 幕末にはそれを利用して勤王の志士の会合も行われていた模様です(勤王派の建部氏と尾崎氏は乙丑の大獄で切腹させられている)
 その尾崎惣右衛門の子の尾崎臻師から眞鋭流初代宗家前田勇眞鋭先生が手裏剣術と火打釘の儀式作法、用具一式を受け継ぎました。 昭和二年には前田先生が尾崎臻師の案内で儀式が行われた場所の発掘調査を行い、 当時使われた手裏剣を発掘しています。
 その後、前田勇先生が尽力し1972年には北九州市の無形民俗文化財に指定されました。
 

 

鎮火祭火魔封火打釘(現在)

 現在は黒崎春日神社の春の大祭において、神職の方々と関係者の皆様のご協力により鎮火祭が毎年執り行われ、 前田先生より伝統の技と祭具を受け継いだ二代宗家 寺坂進先生によって鎮火祭火打釘が今も続けられています。
 その際には昔から伝わっている手裏剣や火消し奉行の装束なども展示しています。

 古武術としての手裏剣術についても、寺坂先生が中心となって筑前塾の手裏剣研究会で毎月稽古会が続けられており、 日頃の稽古の成果を互いに披露し、流派を問わず技術交流を行っています。
 400年以上に渡る伝統は今も受け継がれています。